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松尾祭は京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社の祭礼である。松尾大社は文武天皇の大宝元年(701)秦忌寸都理(ハタノイミキトリ)が社殿を創建したと伝えられている。泰氏は五世紀の頃帰化し、葛野一帯に大きな勢力持っていた。太秦広隆寺も氏寺であり、松尾大社も氏神として長く奉斎したと言われている。平安京遷都後は、賀茂社と共に皇城鎮護の神として、東の厳神、西の猛霊と称せられ、本市における最古の神社の一つである。
松尾祭は遠く平安朝清和天皇の貞観年中(859〜876)に始められたと伝えられている。即ち、江家次第等の書に「清和天皇の貞観中を以て其の原始とす(中略) 後世、官祭終て後に国祭を行へり」とある。古くは松尾の国祭と称したものである。また、公事根源にも「此祭も貞観中に始まる」とあり、古事類苑神祗部三に、「国史ニ明文ナシト雖モ、恐クは本ツク所アリシナルベシ」とある。
また、醍醐天皇の延喜六年四月(906)今日松尾祭也(日本紀略)以下夫々の年代の記録も間々見られる。(以下略)松尾祭の おいで と呼ばれる神幸祭は三月中の卯の日 おかえり と呼ばれる還幸祭は四月上の酉の日であった。そのため 卯か卯かおいで・・酉酉とおかえり と言われていた。
明治以後、四月下の卯の日に神幸祭、五月上の酉の日に還幸祭となり、昭和三十六年から三月二十日以後の最初の日曜日に神幸祭、三週間後の日曜日に還幸祭となっている。
かつての秦氏の勢力範囲は現在の西京区、右京区、下京区、南区の千本以西の洛南、洛西の殆どと言える。従って松尾大社の氏子の地域も広く、近世までに百八ヶ村と言われ、祭りもまた洛西第一の祭礼である。特に、下京区には西七条御旅所があり、宮本として長く祭りに関わってきた歴史と伝統があり、この伝承は一つには神輿が村々のもの、氏子のものであったという意識も強く、時には村と村の争いや、競いあいとなり、あるいはそれが連帯を強めてきた。
新年を迎えてから還幸祭が終わるまで、それぞれの轅下の諸行事、おいでの山での飾り付け輿丁のホイットホイットのかけ声、拝殿廻り、桂川の渡御、旅中の行事、おかえりの唐橋、朱雀での神事、還御をおえて高張提灯をつけ、鐶を鳴らしての帰途道中のこと。これら一つ一つに、かつての村と村、人と人との出会いがあり今日的にも地域社会の協調性、連帯性、人と人とのふれあいがありそこにまた、祭りの伝承がある。まさに祭りは心のふるさとだと思う。 |
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とりみこし新聞 十八号より |
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出御祭には松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の神輿(月読社は唐櫃)が、ご本殿のご分霊を受けて、拝殿を三回まわった(拝殿廻し)後、順次社頭を出発し、松尾・桂の里を通って桂離宮の東北方から桂川を船で渡り、左岸堤防下で七社勢揃いし、古例の団子神饌を献じた後、四基の神輿と唐櫃とは西七条御旅所に、二基の神輿は川勝寺と郡の末社に至り、そこに駐輦されます。 |
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<松尾大社ホームページより> |
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還御祭には、三御旅所に駐輦されていた神輿と月読社の唐櫃とが、西寺跡の「旭の杜」に集合し、ここで古例による西の庄の粽の御供、赤飯座(あかいざ)の特殊神饌をお供えして祭典をした後、列を整えて 朱雀御旅所に立ち寄り、ここでも祭典、次いで七条通りを西に進み、西京極、川勝寺、郡、梅津の旧街道を経て、松尾大橋を渡り、本社に還御されます。
この還御祭は神輿渡御祭の中心で、今でも氏子中で「おまつり」と言えば、この祭を意味します。本社でも本殿、回廊、拝殿、楼門、各御旅所の本殿、神輿から供奉神職の冠・烏帽子に至るまで、葵と桂で飾るので、古くから「葵祭」とも言われてきました。賀茂両社の「葵祭」は観光名物としてあまりにも有名ですが、秦氏との関係の深い当社や伏見稲荷大社にも実は同様の伝統が存在しています。
この出御祭、還御祭には、いずれも吉祥院地区から二組の稚児が「榊御面(さかきごめん)」の役を奉仕する例で、男女の面をつけた榊の大枝を奉持して先導役を務めます。また還御祭には下津林地区から選ばれた稚児が「松尾使い」として奉仕します。 |
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<松尾大社ホームページより> |
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